わたしとアルベルゲ
10年越しのアルベルゲ建設
杉山幸一郎
巡礼のきっかけ
2011年3月11日。僕はチューリッヒで友人とクラシックコンサートを聴きに音楽ホールへ出かけていました。開演時間になり会場が静まって準備ができた頃、指揮者は演奏を始める前に、オーケストラと観客に向かって「日本の大震災および津波の被害に対して、黙祷を捧げましょう」と言ったのです。その日の朝に、インターン先の同僚から「日本で地震があったんだって、大丈夫なの?」と聞かれたものの、深く気に留めることなくそのまま働き、その晩のコンサートで、何やら定期的に起こる地震ではなく、只事ではないらしいことが起こったと知った始末。今思い出しても、ただ恥ずかしい限りの無頓着さで、コンサートの最中も頭が真っ白になり、何も入ってきませんでした。
友人知人から震災の被害を聞く度に、自分はなんて呑気なことをしていたんだ。という罪悪感に似た気持ちが生まれ(もちろん、何も悪いことはしていないのだけれども)、同時にその場で皆と困難や悲しみを分かち合いながらも復興に向けて進んでいく、そのエネルギー、連帯感みたいなものも共有できない。そんな拠り所の全くない「どうしようもなさ」に僕は苛まれることになります。ネットでの義捐金は数クリックで終わってしまう実感のないものだったし、かといって全てを放り出してボランティアに行くだけの決断力もなかった。自分には何ができるのかと考え末に、幸せに生きるとはどういうことか。そのために僕は建築家としてどういったことができるのか。ということを考え、そのことに自分なりの答えを探すために、巡礼の旅に出ることを決めました。
今振り返れば、復興に関してもっと別の関わり方があったようにも思うのですが、当時は巡礼の旅に出ることが、自分にとって《もっともらしかったんだろう》と。何より、全くの別の環境に身を置いて、空っぽのところからスタートしたかったんだろうと思います。
つまり僕にとって巡礼というのは、生きていくのに必要最低限の物だけを背負って歩くことで、自分たちに本当に必要な物とは何かを自問し、そして自身の心を素直にし、自分は建築家として、地球に住む一人の人間としてこれから何をしていくべきかを考える時間でした。
巡礼の舞台はスペイン北西にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)へ向かう《エル・カミーノ(El Camino)》と呼ばれる巡礼路です。西暦813年にヤコブの墓がその地で発見されてから、教会堂が建てられ、951年の最初の巡礼者を皮切りに、12世紀には年間50万人もの巡礼が行われます。そして、20世紀の終わりに世界遺産に登録されてからは、今でも年間十数万人の人々が訪れています。僕はフランス中西部のサント(Saintes)という街からサンティアゴを通過しイベリア半島の果てムシア(Muxia)まで約1400kmの距離を57日間かけて巡礼しました。
理想のくうかんとアルベルゲ
その道で一番初めに訪れたのが、この教会
です。林のような道のりを抜けた先にあった森のポケットでこの教会に出会った時、そこに創り出された雰囲気に心から感動し、建築と対峙しただけなのにこんなにも《空間》を感じるのかと思いました。素朴で、心地良くて、ずっといたくなるような美しい空間、それこそが自分が創りたいと求めていた《幸せにみちたくうかん》に近いと感じ、巡礼しながらそうした教会建築を丹念に訪れ、記録していきました。日々歩きながら知ることになったのですが、巡礼路沿いにはこうした教会がいくつも建てられています。当時教会を設計するのは今日で言うところの建築家ではなく、修道僧の中でその能力に秀でた人物が設計をしていったのでした。その建設チームのような修道僧の団体は、巡礼しながら行き着く場所に後続する巡礼者たちのための教会を作っていきます。そうして建てられていったものが、ロマネスクと呼ばれる様式を作っていったのです。現在も巡礼路沿いには数え切れないほどの教会があり、僕が訪れただけでもその数は200棟を超えました。
この写真
は別のアルベルゲの写真です。広大に広がる平野にポツポツとある村と村の間に、置き忘れたかのように建っていました。外から見るとどんな建物かわからないのですが、中に入るとそれがかつてチャペルとして機能していたとわかります。次の写真
はその内部です。奥に見えるのが祈りの場所で、本来は椅子が並べられているとこに長いテーブルが置かれて、そこで巡礼者がオスピタレロ(管理人)に巡礼手帳(クレデンシャル)にスタンプを押してもらいます。夜も近づくと、簡単だけれども温まる夕食をもらい、写真手前左に見えるベッドで寝泊まりします。たった一つの空間で、祈り、食べ、労い、休むことができる。巡礼者それぞれが社会で持っていた地位やポジションのようなものを脱ぎ捨て、誰もが平等な一人の人間として一期一会を愉しむ。それが僕にとってのアルベルゲであって、人が集まって住む場所の原型になっています。
教会はそれ自体として完結したものではありません。そこに辿り着くまでの道のりや、それまでに出会った人たちとの交流までも、その空間体験の一部になる。歩くという素朴な行為、巡礼者同士の社会的ヒエラルキーのなさ、そうした建築と建築の間を拾って初めて、その人にとっての「くうかん」が形作られていくのです。
幸せにみちたくうかん
幸せにみちたくうかんとは何だろう。これは単に建築空間のことだけを指しているのではありません。心地良い雰囲気というのは、建築そのものだけではつくれないものです。その前後の出来事やそこにたどり着くまでの風景、その場にいる人たちとの関係も一緒くたになってつくり上げられている。そんなリラックスした閑かな余韻を残すには、ハードである建築の影響はもちろん一番大きいでしょう。
では具体的にどういうものなのか?残念ながら僕にもまだ、これと提示できる確固たるビジョンがありません。いま僕たちが生きている社会の中で、当たり前だと認識し無意識に見過ごしてしまってきている事柄に対して、新しさを再発見できる感受性を準備し、ニュートラルな視点、価値観をもって接していくことで探求できるテーマだと感じています。
つまり幸せにみちたくうかんを求めることは、今までとは別の見知からある文化や社会を見直すというよりは、どこの社会にも帰属しない、でも、どこの社会や人間も根底にもっていることを探求することに近いのではないか。このアルベルゲプロジェクトに関わりながら、そんなことを考えて設計を進めています。