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日々の活動報告

【ふくしま浜街道トレイルを歩く(第1回:その1)】

2023年9月30日、「ふくしま浜街道トレイル」が正式に開通した。青森県八戸市から相馬市まで延びる自然歩道「みちのく潮風トレイル」につながるトレイルとして、福島県浜通りの13市町村でつくる「うつくしま浜街道観光推進会議」がコースを設定。新地町の磯山展望緑地を北端、いわき市の勿来海岸を南端に沿岸部の10市町を結ぶ、全長約200キロのトレイルである。

福島民友新聞
福島民報新聞
ふくしま浜海道トレイル(公式HP)

ということで、これまで「後日詳細公開」だった「東日本太平洋沿岸巡礼路」プロジェクトの一環として「ふくしま浜街道トレイル」を歩き始めることにした。長い休みをとって一気に200キロというわけにはいかないので、少しずつ刻みながらの巡礼になる。その第1回として、福島県最北端の町新地町を歩くことにした。

新地駅は真新しい駅舎にがらんとした駅前。津波の被害の大きさを痛感する。目の前にある「観海プラザ」内の観光協会で「ふくしま浜街道トレイル」のパンフレットを入手。モデルコースに合わせてトレイルの「北ターミナス」、磯山展望緑地を目指すことにするものの、「新地駅から3.1㎞、徒歩約60分」の記載にメゲる。そろそろお昼だし、まずは腹ごしらえと思うが、飲食店もコンビニもない。うろうろしていると「お食事のみの利用もできます!」の張り紙のある「つるしの湯」を発見。地元産の食材をということで「サバの味噌煮定食」(990円)を注文。日本酒のラインアップも充実していたのだが(「新地町のお酒 鹿狼山 純米吟醸」が飲みたかった)、さすがに千鳥足で巡礼というわけにもいかないので今回は自粛。次はここをゴールにして風呂と酒を楽しみたいものである。

地下歩道を通って東口に回り、県道38号(相馬亘理)線に出る。トラックがひっきりなしに通る直線道路で、広い歩道があるとはいってもしばらく歩くと物寂しくなってくる。雨も降り始めた。レインウエアを重ね着して暖かくはあるものの、心が寒い。これはいけないと下の道に降りることにする。

雨も止んで、つれあいが持たせてくれた行動食を食べる余裕も出てきた。まずは事前のリサーチ(といってもGoogleで「新地町」を検索してマップを眺めただけだが)で気になっていた「磯山聖ヨハネ教会祈りの庭」を訪れることにする。

農道を地図をたよりに歩いて行くと、「磯山聖ヨハネ教会祈りの庭 200m先」の標柱、細いながらきちんと手入れされた道の先、階段を登るとそこが「祈りの庭」だった。

祈りの碑にはこう記されていた。

祈りの碑

二〇一一年三月一一日午後二時四六分三陸沖を震源とする
マグニチュード九・〇の地震が東日本を襲った
新地町は震度六強の地震に続き最大波一四メートルを超える
巨大津波に磯山埓浜地区で八名(新地町全体では一一九名)の
尊い命が奪われた 当時磯山地区には一一戸四三名の生活が
あったが、磯山聖ヨハネ教会に一七名と四匹の犬猫が避難した
夕方から小雪が降り寒い夜を迎えたが人々は礼拝堂にあった
小さな石油ストーブを囲み肩を寄せ合い息をひそめるように
して救援を待った

礼拝堂は地震のため「危険建物」に指定され
人々が集まり神のそばで一夜の命をつないだこの夜が
礼拝堂を利用した最後の日となった
二〇一三年三月 惜しまれながら加藤博道教区主教の
司式によって 礼拝堂聖別解除式が行われ解体された
しかし信仰のともしびは消えることなく新たに信徒二名が
誕生した またここには 全国及び世界中から多くの人が
訪れ 祈りがささげられている
一九三六年一二月二七日献堂以来 七七年間存在した
礼拝堂を記念し 合わせて東日本大震災で天に召された
すべての方々
ことに
 イサク  三宅  實  兄
 スザンナ 三宅 よしみ 姉
 グレース 中曽 順 子 姉
を追悼し 魂の平安を祈念するものである

日本聖公会東北教区
磯山聖ヨハネ教会牧師 信徒一同 記

救主降生 二〇一六年 三月一一日



日本聖公会東北教区のHPで磯山聖ヨハネ教会を検索してみると、「教会紹介」として次のような説明があった。

1920年(大正9年)、仙台の青葉女学院校長、アンナ・ランソン女執事による林間日曜学校が伝道の開始であった。その後、ランソン女史と婦人伝道師・長山裕子師が共に磯山に定住。1936年、「福音記者使徒聖ヨハネ日」に礼拝堂および会館新築、ビンステッド主教により聖別され、磯山聖ヨハネ教会となった。当時の村落の中で託児、干害・高潮対策、水門設置等の農業支援も行い地域に貢献した。クリスマスをはじめ様々な機会には地域の子どもたちが多く教会を訪れ、今なお、その時の思い出を話される方々がおられる。1940年から1962年まで宅間六郎司祭が定住。同司祭逝去後定住教役者のいない状態となったが、教会は信徒によって支えられ、東北教区の修養会、研修会、家族キャンプ等が開催された(信徒の三宅實氏の「ときわ旅館」にて。大震災の津波によって全壊。)

2011年3月11日の東日本大震災の最大波14メートルを超える大津波によって、信徒3名他、複数の関係者が犠牲となった。当夜、近隣の住民17名とペットが礼拝堂に避難し一夜を明かした。新地町全体での犠牲者は119名である。

2013年、被害を受けた礼拝堂の聖別解除の祈りを献げ、3月に解体。その後同じ場所における教会再建を目指したが、被災地のさまざまな条件により実現は困難となり、挫折を繰り返す中、2016年、最後の決断として新地町の適切な場所にあった中古家屋物件の購入を決断。リフォーム等を進め、ついに2017年6月、教会の聖別、併せて「祈りの庭」(旧・礼拝堂跡地)の祝福がなされた。幹線道路(国道6号線)に近く、緑に囲まれた地である。これらは海外を含めた全国の聖公会関係者の祈りと支援によって実現に至ったものである。以後、今日まで各地からの訪問者と共に礼拝を献げ続いている。また地域に対して開かれたプログラムの開催に努めている。

地域を愛し、また地域から愛された教会であったのだと思う。祈りの鐘を短く3度鳴らす。澄んだ、そして穏やかな音色だった。残響の中しばし瞑目し、そして祈った。

(続く)