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わたしとアルベルゲ

【第1回】El Camino 僕が歩いた1600km

芳賀言太郎

第一話 旅立ち、そして出発

はじめまして。芳賀言太郎(はがげんたろう)と申します。大学の建築学科を今年の3月に卒業し、現在は一人の建築家の卵として個人的な活動をしています。僕は大学4年生になる前に大学を1年間休学し、巡礼の旅に出ました。自分自身の何かを変えようと漠然と考えていました。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼を通して体験し、感じたことを綴っていきたいと思います。

サンティアゴ・デ・コンポステーラについて

スペイン北西部にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラは、エルサレム、ローマと並ぶキリスト教の3大聖地の1つである。伝説によれば、12使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)はスペインで布教活動をしていた。後にエルサレムに戻ったヤコブは迫害を受け、殉教する。キリストの復活を知る王はヤコブの復活を恐れて遺骸の埋葬を許さなかったため、弟子たちは密かにヤコブの遺骸を船に乗せ、運び出した。そして海を渡りイベリア半島の北西端、ガリシア地方の海岸に辿り着いて埋葬されたといわれている。その際にガリシア地方の名産だったホタテ貝が聖ヤコブの象徴となり、サンティアゴ巡礼のシンボルとなったとも言われている。

その後、亡骸は行方不明となるものの、813年、星の光に導かれた羊飼いによってヤコブの墓が「発見」される。(ペラヨという修道士が見つけたとの説もある)。そこに教会が建設され、コンポステーラ(カンポ:野原+ステーラ:星の)と名付けられた。当時、イベリア半島ではレコンキスタ(再征服運動:イスラム勢力に奪われた領域をキリスト教勢力が奪い返そうとした一連の軍事行動)の最中であり、キリスト教勢力の守護者としてヤコブは熱狂的に崇められていた。

聖人崇拝や聖遺物崇拝を背景として聖地巡礼が盛んになる一方、イスラム勢力の台頭によってエルサレムへの巡礼が困難になっていたこともあり、ヨーロッパ中の人々がサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かい始めた。このためサンティアゴ・デ・コンポステーラは、西方キリスト教世界における代表的な巡礼地となり、巡礼路が整備されると共に、巡礼者への奉仕を目的とする修道院が配置される。最盛期の12世紀には年間50万人もの巡礼者がこの地を訪れたと言われている。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ カテドラル
サンティアゴ・デ・コンポステーラ カテドラル

サンティアゴへの巡礼路はヨーロッパ各地からつながっており、パリ(Paris)、ヴェズレー(Vezelay)、ル・ピュイ(Le Puy-en-Velay)、アルル(Arles)の4つが主な巡礼路の起点となる。中には自宅から歩き始める人もおり、ドイツの自宅から3,000kmを歩くという猛者もいた。しかし、これらの場所から歩き始めるには長い時間がかかり、体力的にも厳しいものがある。そこで、一般的にはフランスとスペインの国境沿いにあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポー、スペイン国内からはロンセスバジェスが起点となっている。私はその中からル・ピュイ(Le Puy-en-Velay)というフランス中西部の町から歩き始めることにした。思い切って休学したのだから、フランスから3ヶ月かけて歩き通してみようと思ったこと、そしてガイドブックに紹介されていたル・ピュイの風景があまりにもインパクトがあったからだ。

巡礼路の地図
巡礼路の地図

8月下旬、東京が連日猛暑でうだるような暑さの中、僕は成田空港の出発ロビーにいた。これから、スイスを経由してフランス・パリへ向かう。エールフランスのパリ直行便が理想なのだが、そんなお金はない。以前、スペインに訪れたときはロシア・モスクワ経由だった。そのときのアエロ・フロートの古い機体に比べたらスイス・エアラインなんて贅沢である。チューリッヒ空港のきらびやかな免税店を素通りし、乗り換える。パリ・シャルル・ド・ゴール空港へ。

到着は午後8時。少しでも目的地に近づくためTGVでリヨンへ向かう。着いたときには午後11時を過ぎていた。僕は基本的に一人旅では宿の予約はしない。理由は簡単で、予定なんてあってないようなものだからである。したがって本日の宿はもちろんない。もちろん探せばどこか宿はあるのだろうが、なんせお金がもったいない。貧乏学生のバックパッカーにとって最も貴重なものはお金である。夏に一晩ぐらい野宿しても死にはしない。予約をしないと決めている時点である程度野宿する覚悟もあるのである。今回は駅前のバス停のベンチに寝袋にくるまって夜を明かした。途中何度も目が覚める。決して快適とは言えないが、逆に寝坊することは絶対になく、始発の電車に必ず乗れるのはメリットである。しかし、これほどまでに時間の進みが長く感じることはあまりないだろう。ようやく朝になった。サンティティエンヌへ向かう。駅の中にあるカフェに入り、クロワッサンとカフェオレを注文。約3ユーロの朝食だ。そして、電車を乗り継ぎ、ル・ピュイの駅に降り立った。

リヨン駅朝
リヨン駅朝
ル・ピュイ 急勾配の坂を歩く
ル・ピュイ 急勾配の坂を歩く

ル・ピュイは町全体が世界遺産にも登録されている中世の街並みの残る美しい町である。町の中心のカテドラルは小高い丘の上にあり、当然のことながら駅からの道は坂になっている。ここで、改めて10キロのバックパックを背負って歩くことの大変さを実感する。カテドラルは白と黒の石を交互に積み上げた縞模様の美しいアーチが印象的である。回廊も同じように統一されデザインとしても大変美しい。

カテドラル 正面
カテドラル 正面
回廊
回廊

そしてル・ピュイの中でも特に印象的なのがそびえ立つ岩山の上に建つサンタ・マリア・デギュイユ教会。なぜ、わざわざこんな場所に礼拝堂をつくったのだろう。

この礼拝堂が完成したのは約1000年前。修道僧たちは世俗から離れ、少しでも高く天に近い場所で祈りを捧げるために、この困難な場所で礼拝堂の建設をおこなったのだろうか。

内部に入ると洞窟のような小さな空間ながらも濃密な祈りの空間がそこにはあった。小さく穿たれた開口からの光はわずかである。この礼拝堂の空間には祈るという行為を誘発させる何か特別な力がある。建築とは空間をつくること。空間によって人々の行為を誘発させる力を持っていることが強く感じさせられたのであった。

サンタ・マリア・デギュイユ教会
サンタ・マリア・デギュイユ教会

夕方、町を散歩していると、入り口にホタテ貝と杖がおいてある家に目が止まる。思わず中に入ってみると、サンティアゴ巡礼に関係する道具や資料が展示されている。詳しく聞いてみると、この巡礼博物館はかつてル・ピュイからサンティアゴまで巡礼を行った巡礼者が個人で運営していることがわかった。その主人はサンティアゴへの巡礼を多くの人々に知ってもらいたいと、ほとんどボランティアの形でこの巡礼博物館を運営している。博物館にはホタテ貝の付いた杖やひょうたんの水筒、巡礼手帳や各国の言語で書かれたガイドブックなど、さまざまな国からやってくる巡礼者の足跡が展示されていた。巡礼にはこうした文化が息づいているということを実感し、中世から続く歴史と伝統ある巡礼路だということを肌で感じた瞬間であった。

巡礼博物館
巡礼博物館

出発の朝、ル・ピュイのカテドラルでは司祭による巡礼者のためのミサが毎朝、7:00から行われる。祈りと祝福のあと、司祭が巡礼者一人一人にどこから来たのかと尋ねた。フランス、ドイツ、スイスの人が多く、カナダやアメリカからやってきた人もいた。私の東京・ジャパンが最も遠く、このル・ピュイから離れた場所からの巡礼者であったことはまちがいないだろう。司祭も驚いたようで、よく来たねと後から声をかけてくれた。

ミサが終わりシルバーメダルを1つ渡された。表にはサンティアゴ巡礼のシンボルであるホタテ貝が彫られており、裏にはNotre Dame du Puyとカテドラルの刻印がされていた。そのメダルをネックレスにつけて首から下げた。これがル・ピュイから巡礼を開始した証明になるだろう。カテドラルの階段を一歩一歩降りてゆく。

カテドラル 祭壇
カテドラル 祭壇

いざ巡礼の旅のはじまりだ!